
プロッターと対話をしながら、描くということ
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僕は、手書きや写真を使った作品のほかに、ペンプロッターで描画することがある。元の絵自体は手書きで必ず描いているけれど、その状態で完成とはせずに、あえてプロッターを使って描きなおしている。それは、単にプロッターに綺麗に描き直してほしいという意図でツールとして“使う”という関係ではなく、どちらかといえば対話を重ねながら“ともに描く”という感覚に近い。
手で描く線と、機械が描く線。そのちょうど境目にあるような線を、僕は描きたいと思っている。アナログとデジタル、人間とプログラム。その境界が少しずつ滲んでいくこの時代において、“時代の感覚”を内包した表現としても、プロッターとの対話を選んだ。
その対話の中で描かれていく線は、僕だけで描いたとも言い切れないし、機械だけで描かれたとも言い切れない。むしろ、そのあいだにある偶然性をもはらんだ“何か”が立ち上がってくる。僕は、その“何か”こそを描きたくて、プロッターと対話をしながら線を引き続けているのだろう。
プロッターには、その主題となるものを事前に共有して描いてもらっている。音が主題となる作品の場合は、あらかじめ準備しておいた音(水の音、風の音、都市のざわめきなどの環境音)を聴いてもらう。感情が主題となる作品では、文章化した感情を渡したり、写真や映像などを共有することもある。そんな音や感情に含まれる空気感や抑揚に応じて、プロッターの描画速度や動き方がわずかに変化する。僕はその変化を受け取りながら、自分の感情や直感をインターフェイスを通してフィードバックをして、プロッターの動きに対してこちらも応えていく。そこにはたしかに“照応”のようなものがあり、対話とも呼べるような、繊細なやりとりが生まれる。
こうして描かれていく線には、人だけでは生まれ得ない緊張感や、機械だけでは生まれ得ないゆらぎが滲む。完璧でも不完全でもない、ちょうどその中間にあるような感覚。整いすぎず、少しのズレや手ざわりを残したまま開かれているからこそ、見る人の感覚とどこかで触れあう余地がある。その揺らぎは、ときに未完成とも見えるかもしれないけれど、僕にとってはむしろ、そうしたひらかれた状態そのものが、描きたいと思っているものに近いのかもしれない。
僕の作品はいつも何かとの“対話”の中にある。環境との対話、音との対話、光との対話、自分自身との対話。プロッターとの対話も、そのひとつにすぎない。どれもが等しく、作品をつくるために必要な外部の存在であり、そのやりとりのなかで初めて形が立ち上がる。僕の描く作品は、人間だけの感性によって閉じられたものではなく、外との関係性のなかで生まれてくる開かれた構造でありたいと思っている。だからこそ、プロッターもまた、対等な存在としてそこにいる。
プログラムや機械とともに描くということは、感性の代替ではない。むしろ感性の輪郭を、より深く照らし出してくれる存在なのだと思う。僕にとって“描く”という行為は、常に誰かとの対話であり、応答であり、そしてまだ知らない感覚との出会いでもある。その対話を、これからも少しずつ積み重ねていきたいと思っている。