Tsuyoshi NAKATOMI / ナカトミツヨシ

Tsuyoshi NAKATOMI

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僕のほとんどを創った “2001年宇宙の旅” -  by Tsuyoshi NAKATOMI

僕のほとんどを創った “2001年宇宙の旅”

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太古の昔に1匹の猿が謎の《モノリス》に触れて武器を覚え《ヒト》になってからも進化が止まらない我々人類は、文明発達の鍵を握るモノリスの調査のため人工知能「HAL」と共に深宇宙へと旅立つ。しかし文明を極めた人類も未だ知らない《その先》が洪水のように押し寄せてくる ー

僕は映画、ゲーム、小説に常に影響されて生きてきた。その人生の中で観た映画で最も影響を受けたのは、間違いなく “2001年宇宙の旅” だろう。この映画ほど “僕” という存在に影響を及ぼした作品は無い。けれども、実は今までこの映画について話すことは意識的に避けていた。僕にとって “2001年宇宙の旅” があまりにも偉大で、そしてあまりにも個人的な映画だったからだ。

鑑賞の動機は “義務感”

“2001年宇宙の旅” は、1968年に公開されたSF映画の金字塔。という情報と名前は聞いた事があったけれど、僕が誕生するよりもはるか以前に生まれたそれを観る機会はなかなか無かった。そして、映画の設定に現実が追いついた2001年、あの名前だけ聞いたことのある映画がリバイバル上映をしていると聞き、フラっと映画館へ立ち寄ってみた。

往々にして時代の設定に縛られる映画は、現実がそれを追い越した途端に陳腐化する。SF映画なら尚更だ。しかも公開されてから30年以上経過している。そして僕自身も、新しく作られた傑作と呼ばれる映画を既にいくつも観てきた。どの条件を切り取っても2001年に楽しめる映画ではないだろう…それでも有名な映画だからと、当時役者をやっていた自分への義務感のようなものに背中を押されてチケットを購入していた。

それは、僕のほとんどを創った

そんな若気の至りで斜に構えていた “僕” だったが、この映画に触れたとき、そんな “僕” の全てが霧とも砂つぶともいえない小さな塊に解体されて、吹き飛ばされるような感覚だった。”2001年宇宙の旅” は僕にとって体験そのもの。宇宙を知り、神とも呼ばれうる域を知覚し、全ての細胞が知的興奮に打ち震えた。とてもではないけれど、人の手が創ったものだと思えなかった。

当時私が知っていたSF映画といえば、”スターウォーズ” をはじめとするスペースオペラだった。子どもも大人も一緒に楽しめる、空想科学的な冒険活劇としてのSF、進化した科学技術をヒトが使うSFだ。(ちなみに “スターウォーズ” もとてつもなく大好きなのだけれど、それは別の機会に)

しかしこの映画はどうだろう。おおよそ子どもには、ともすると大人でも理解が難解なほどの重層構造とシンプルさ。それゆえに抽象的なんだけど科学的。精神的であり、芸術的であり、哲学的でもある。

人の歩みはなにも、科学技術が進化して便利になった世界を使いこなすだけではないだろう。人自体も進化して然るべきなのだ。科学技術の進化はもちろん、それと同時に人も進化していったら、ヒトはどうなっていくのだろうか。どんな形、どんな思考、どんな視界を持っているのだろう。そんな進化の、その先までを描いてみせた SF(Science Fiction) との出逢いに、形而上学的な知的好奇心は揺さぶられ続けた。

この映画は、それまでの “僕” を全て解体し、再構築を促した。今の私の趣味や癖(へき)と呼ばれるようなものは、ほとんどこのときに構築・発生したものだ。この映画に触れてからというもの、この映画は僕のほとんどを創ってしまったのだ。映画の中で猿がモノリスに触れて、ヒトに進化したように。

この映画は僕にとってのモノリスなのだ。

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