
視覚イメージを頭に描けない「アファンタジア」の世界
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僕は、視覚イメージを頭に描く事ができない「アファンタジア」という脳の特性がある。そのことを知ったのはついこのあいだ。それまでは、頭の中で自分とは違う見え方をしている人がいるなんて思いもしなかった。僕個人の肌感であることは前提としてほしいけれども、僕は「アファンタジア」であることをポジティブに受け止めているし、とても強い味方なのではないかと思っている。そんな僕のみている世界の片鱗を、良かったら感じてみてほしい。
目を瞑れば、何も見えないんじゃないの?
アファンタジア(Aphantasia)は、心的イメージを思い浮かべることができず、頭の中でイメージを視覚化することのできない状態を指す。
「頭の中で赤いリンゴをイメージしてください」と言われた時みなさんは、赤いリンゴを頭の中で視覚的にイメージできるだろうか。
多くの人は、1〜4程度はイメージできるらしい。でも僕の頭の中は「5」で、全く何も、輪郭すら描かれない。リンゴが認識できていないわけではなく、言葉で話せば色も、形も、味も、好きな品種も語ることができる。しかし、そうやって語っているときの僕の頭の中には、リンゴの絵は全く描かれていない。
「頭の中でイメージする」ことは、美術の授業や心理テストで数多使われている表現だけれど、それは「比喩」だと思って今まで過ごしてきた。だって目を瞑ってしまえば、みんな何も見えないだろう、と。でも目を瞑っても、リンゴを頭の中に、視覚的にイメージできる人が居る。比喩ではなく本当に頭の中で視覚的にイメージできる人がいることに(しかもそちらがマジョリティであることに)とてつもない衝撃を受けた。
頭の中では視覚的に描けないとしてもリンゴのディテールは知っているので、みなさんとは異なる感覚や方法でタグ付けをしてリンゴのことを覚えているのだろう。うまく言葉にできないけど、僕の場合はそんな感覚が統合された「気配」のようなもので覚えているように思う。ともあれ、視覚的なイメージを持たずに世界を認知することが普通ではないなんて、思いもよらなかった。
さっき会った人の顔が頭の中で描けない
例えば、久しぶりに会った人の顔を見分けることはできる。昔の写真を見ながら、これは〇〇さんで、これはXXさんだね、とは言える。本人であれ写真であれ、目の前に顔があれば、それが誰かはすぐに分かるし、思い出すこともできる。
しかし、さっき会った人の名前だけ出されても頭の中では、その人の顔の視覚的なイメージは全く描けない。言葉で顔の説明はできるのだけれど、それは頭の中にイメージとして描かれている絵を見ながら顔の説明をしているわけではなく、他のタグ付けや「気配」、言葉自体の記憶を再生している。実際に顔の絵が浮かんでいるわけではない。
ただ何度も書いているように、視覚的にイメージできているわけではないにせよ、他の情報で紐づけて記憶をしているので、「アファンタジア」だからと特に困ったことはなかった。実際それが普通だと思っていたので、違和感さえ感じていないかった。
絵だって描ける
僕は、記憶の中の絵を写実的には描けない。見出しと逆で大変恐縮だけど、昔から絵を描くのは苦手だった。しかし、ティズニーのアニメーターをされている Glen Keane さんや、ピクサーの Edwin Catmull さんもアファンタジアを公言しつつ、素晴らしい絵や作品を描かれている。ただ、プロセスが他の人とは異なるのだろう。
そして僕はというと、音や香り、味や感情といった「視覚」以外の感覚を、抽象画や抽象写真で表現している。幼い時から「目に見えているもの」以外への強い興味、「目に見えないもの」の「カタチ」について、とてつもなく惹かれ続けてきた。
「アファンタジア」という言葉さえ知らなかったのだけれど、長年それと付き合っていく中で、自然と視覚以外への興味が強くなっていったのかもしれない。突然音が好きになって、突然フィールドレコーディングを始めたのだって、自分でも意味がよくわかっていなかったけれど、「アファンタジア」というものさしが現れたことで、やっと納得ができた。
頭の中に具体的なイメージがないからこそ、感覚的で、あやふやなモノを感受して描くのが好きなのかもしれない。ともすると、「アファンタジア」であることは、僕にとってはギフトかもしれないし、とても強い味方なのかもしれない。
感覚で、記憶を愉しむ
自分が「アファンタジア」だと知人に話をした時、その知人は「文章にしろ記憶にしろ映画のように再生される」と言っていた。それは僕には、感じることのできない感動だろう。実際今までの経験やエピソードの些細な事柄は思い出せるけれども、それを視覚的に体験することはできない。それに、どんなに大切な人でも、会えなくなってしまったら、視覚的に顔を思い出すことはできない。
だからこそ僕の記憶は視覚以外の記憶が多いように思う。身体的なものであったり、感覚的なものであったり。暑かった、華やかな香りだった、美味しかった、柔らかかった。視覚とはまた違った形で僕の心に迫ってくる感覚で、記憶を再体験しているのだろう。僕は趣味で写真を撮り続けているが、今思えばそうやって残しておけば、会えなくなった大切な人の顔だって「見る」事ができて心に残り続けると、どこかで思っていたのかも知れない。
そして、他の人は記憶の中で僕を「見る」ことができているのかもしれないと思うと、それもまた嬉しい。「アファンタジア」はニューロダイバーシティ(神経多様性)の一部なのだ。イメージで考える人がいれば、そうではない人もいる。自分が「アファンタジア」だと知れたことで、やりたいことの方向も明確になったし、人によって世界の見方が違うのだということを改めて感じることができた。
僕は「アファンタジア」と仲良くしていこうと、思う。